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野田衛基金
 AIDS&Society研究会議では、寄付やカンパからなる「野田衛基金」を設け、エイズ関連の事業推進・助成のために役立てています。  基金からの助成を希望される方は、事務局へお問い合わせください。


HIV対策で基金を創設
産経新聞編集委員・AIDS&Society研究会議理事
宮田一雄

 病院で診察を受け、がんが肺に転移していることを野田衛さんが知ったのは、大腸がんの手術を受けて一年半ほど経ったころだった。術後の経過はよかったはずなのに医者からは「一カ月か二カ月の単位で考えてほしい」と告げられた。
 「やっと戦場から戻ったと思ったら、ホテルでシャワーを浴びているうちにせっけんに滑って転び、頭を打って死んでしまった。そんな気分だね」
 野田さんは「数カ月の命」と宣告されたときの感想をそう語っていた。ベトナム戦争の取材をしていたころ、そんな記者が実際にいたのだという。
 1998年5月の連休明けにAIDS&Society研究会議の主だったメンバーが集まって夕食会を開いたときのことだ。
 野田さんは産経新聞社会部のOBであり、キューバ革命の直後のハバナやベトナム戦争など海外での取材経験も豊富だった。昭和50年には、すぐれた国際報道に携わった記者に贈られるボーン・上田記念国際記者賞を受賞している。私にとっては大先輩ということになるが、実際に私が野田さんと知り合ったのは、野田さんが産経を退職し、企業の社会貢献や危機管理の仕事に携わるようになってからだった。
 エイズ対策もまた企業にとっては危機管理の重要なテーマであり、野田さんは日本の企業のエイズ対策についていえば、草分けというべき存在だった。

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 AIDS&Society研究会議はエイズ対策に取り組む日本の研究者、医師、NGO関係者、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染者、企業関係者、ジャーナリストらが集まって1990年11月に発足した。さまざまな分野の人たちがエイズ対策について意見を交換し、必要に応じてエイズに関する政策の提言も行っている。野田さんはその団体の発足当時からの副代表であり、私も発足当時からの会員で途中から運営委員の一人に加わった。
 夕食会は「古くからのメンバーと一度、ゆっくり話がしたい。宮田君、すまんがみんなに声をかけてくれないか」と野田さんから電話があったのがきっかけで、前代表の宗像恒次・筑波大教授、現代表の根岸昌功・都立駒込病院医長、事務局長の樽井正義・慶応大教授らが集まった。
 野田さんはさすがにやせてこそいたものの、キューバ革命の英雄チェ・ゲバラといっしょにハバナでゲバラの愛人のアパートを訪ねていったときの話を披露するなど、思わず人を引き込まずにはおかない野田節は健在だった。
 少なくとも私の印象では野田さんが「一カ月か二カ月の命」であるようには思えなかったが、医師である根岸さんは野田さんと別れた後で「厳しいね」と暗い表情でつぶやいていた。
 結果として、あの日が私たちにとっては野田さんを囲む最後の晩餐となった。野田さんが亡くなったのは1998年7月4日午後11時55分、がんの肺への転移が確認されてからほぼ二カ月後のことだった。

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 「不思議なもんでね、医者からもうそんなに長くないといわれて、真っ先に話をしたいと思った相手が君たちだったんだよ」
 野田さんは夕食会でそんなふうに話していた。エイズ対策は野田さんにとって最後の大きな仕事であり、私たちはその未完の仕事をあの日、ベトナムやハバナでの武勇伝を聞きながらそっと託されたのだと思っている。
 倫理学専攻の樽井教授によると、企業にエイズ対策の必要性を説いた野田さんの著書は「人権を守る姿勢に貫かれている点で傑出している」という。戦地の浴室で危うくせっけんに滑り、ハバナではゲバラの愛人のアパートにしけ込み、数々の国際的修羅場を切り抜けてきた野田さんだからこそ、地球規模のエイズの流行という危機に「人権」を無視して立ち向かうことはできないと痛感していたのかもしれない。
 社会がHIVに感染した人を受け入れ、安心して生活できる条件を整えることこそが、感染の拡大を防ぐ最も大きな力にもなる。つまり支援こそが最大の予防策であるという少しトリッキーなエイズ対策の関係。それは企業がHIVに感染して働く人を進んで受け入れない限り成立しない。
 野田さんの夢は、そのためにキャリア・クリニックを創設することだった。HIVに感染した人が企業で働きながら治療を続けられるよう休日や夜間に開く診療所である。
 治療法の進歩で、HIVに感染した人がこれまで考えられていた以上に長く、元気に生きていける希望が出てきているだけに、こうした診療所の必要性も増している。
 研究会議には1998年秋、野田さんの遺族から少なからぬ金額の寄付があり、野田衛基金が創設された。専門家の試算では、診療所を一つ作って運営していくにはその数十倍、場合によっては数百倍の資金が必要だとされているが、メンバーの多くは野田さんの遺志を継いでなんとかキャリア・クリニックの夢を実現させたいと考えている。

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